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 2015年8月23日は、ベルリンから日帰りでポツダム (Potsdam) に行って「サンスーシ宮殿と庭園」と「ツェツィーリエンホーフ宮殿」を訪問した後はベルリンに戻り、ぜひ訪問したいと考えていた「ベルリンの壁」(Berliner Mauer) を訪問してきました。

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ベルリンの壁 (Berliner Mauer) とは?

 ベルリンの壁 (Berliner Mauer) は、1961年から1989年までベルリン市内に存在した壁です。このベルリンの壁は、ドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもありました。

 1945年5月8日、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線がドイツの無条件降伏により終わり、同年7月にベルリン郊外のポツダムでの会談でドイツの非軍事化・非ナチ化・民主化を主眼とする占領改革を進めることで合意されました。このポツダム協定でドイツはイギリス・アメリカ合衆国・フランス・ソ連の戦勝4か国により分割占領され、首都ベルリンもこの4か国のそれぞれの管理地区に分割されることが決まりました。

 その後、やがて英米仏3国とソ連が対立し、1948年6月24日にソ連が英米仏の管理地区 (西ベルリン) と西ドイツとの陸路を封鎖して「ベルリン封鎖」を行いました。一方、米国は、6月26日から「ベルリン大空輸」で対抗し、西ベルリン市民への生活物資の空輸作戦を実施しました、その結果、ソ連は翌1949年5月12日に封鎖を解除して「ベルリン封鎖」は失敗に終わりました。

 しかし、この英米ソの決定的な対立で、社会主義陣営に属するドイツ民主共和国 (東ドイツ) と、自由主義陣営に属するドイツ連邦共和国 (西ドイツ) が成立しました。

 この東西両陣営の冷戦時代に入ってから、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が後を絶たず、危機感を抱いたソ連と東ドイツは、1961年8月13日午前0時に突然西ベルリンを包囲し、東西ベルリン間48kmを含む西ベルリンと東ドイツとが接する分割境界線155kmあまりの境界線の通行を一切遮断し、西ベルリン周囲の境界線から少し東ドイツ領内に入った地点に有刺鉄線を張りめぐらせ、その後に巨大な壁を建設しました。

 以後、東ベルリン市民の西ベルリンへの通行は不可能となり、多くの家族や友人・知人と不意に引き裂かれてしまいました。そしてこの後、壁を越えて越境しようとした者が次々と射殺されるなどの悲劇が生まれることとなりました。

 その28年後の1989年11月9日夕方、東ドイツ政府がそれまで認めていなかった自国民の西側への旅行の規制緩和措置を発表しましたが、このとき報道官が不用意に「ベルリンの壁を含むすべての国境検問所から出国が認められる」と発言し、しかも記者の質問に答えて「発効は即刻です」と返答したことによって、多くのベルリン市民が壁の前に集まり国境検問所が緊迫した事態を生じて、混乱を避けるため夜遅くに検問所が市民の通過を認め、ベルリンの壁は開放されました。これは「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれています。

【参考文献】
 地球の歩き方編『ベルリンと北ドイツ 2014年-2015年版』(ダイヤモンド・ビッグ社、2014年)
 Wikipedia「ベルリンの壁」

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ベルリンの壁 (Berliner Mauer) の場所




<訪問した場所>
  1. ベルナウアー通りとベルリンの壁記念センター (Bernauer Straße / Gedenkstätte Berliner Mauer)
  2. 壁博物館/ハウス・アム・チェック・ポイント・チャーリー (Mauermuseum / Haus am Checkpoint Charlie)
  3. テロのトポグラフィー (Topographie des Terrors)
  4. イーストサイドギャラリー (East Side Gallery)

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ベルナウアー通りとベルリンの壁記念センター (Bernauer Straße / Gedenkstätte Berliner Mauer)

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  • 1961年8月13日に築かれた東西を隔てる壁です。東ベルリンと西ベルリンの境界線であったベルナウアー通り (Bernauer Straße) では、東側に建っていた建物が閉鎖されたそうです。
  • ベルナウアー・シュトラーゼ駅から階段を上がると、1列に並んだ鉄のポールが見えてきます (1枚目の写真) が、これは、かつてここに築かれていた壁を表していて、ポールは、かつての壁と同じ高さとなっています。
  • ベルナウアー通りを進むと、分断当時の壁が200mに渡って残っていますが、その向かい側、通り沿いにあるのが「ベルリンの壁記念センター」(Gedenkstätte Berliner Mauer) です (2枚目の写真)。このセンターでは、壁の歴史や当時の街の状況が展示されています (3枚目以下の写真)。
  • かつて緩衝地帯であった場所には、東側の手で破壊された贖罪教会を再建した「和解の礼拝堂」が建てられています (最後の写真)。

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壁博物館/ハウス・アム・チェック・ポイント・チャーリー (Mauermuseum / Haus am Checkpoint Charlie)

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  • 分断時代から西ベルリンのチャーリー検問所の前にあった博物館で、壁の構築から崩壊までの壁の歴史について詳しく解説されています。
  • 復元された検問所には、ソ連軍兵士の写真と、その裏にアメリカ軍兵士の写真が掲げられています (1枚目の写真)。
  • 博物館では、東西分断時代、自由を求めて東側から西側へ逃れようとして射殺された東ベルリンの住民の悲劇や、脱出に成功した人々の体験談など、実際に使われた車や用具なども展示されています (4枚目の写真)。
  • 14カ国のスタンプをパスポートに押してもらえるということで、私も、もちろん押してもらいました (2枚目の写真)。

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テロのトポグラフィー (Topographie des Terrors)

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 もともとこの場所には、国家秘密警察 (ゲシュタポ) と親衛隊 (SS)、国家保安本部 (SD) があったそうです。

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イーストサイドギャラリー (East Side Gallery)

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  • ベルリンの壁が崩壊した1989年11月の1ヶ月後、アーティストたちがミューレン通りの壁に絵を描き始めました。そして、最終的には、21カ国から118人のアーティストが壁画を手がけました。
  • 当初は、一時的な試みということで撤去されることとなっていましたが、ここの知名度が高まると、壁画の描かれた壁を保存する運動が高まり、結局「イーストサイドギャラリー」と命名されて壁画が残されることとなりました。
  • どの絵も有名だと思いますが、とりわけ有名な絵は、ホーネッカーとブレジネフの「兄弟のキス」(6枚目の写真) でしょう。たしかに、ギャラリーも一番多かったです (7枚目の写真)。
Best wishes to you !!


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